ものもたぱ王国日誌

ただの備忘録です

【書評】メディア不信――何が問われているのか

 気になったので購入。

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

 

 

読んだ率直な感想としては、かなり示唆に富んだ内容であったと思う。ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本の現状を分析し、その後にソーシャルメディアについて書いてある。私が重要だと思ったのはソーシャルメディアについて書かれている5章だ。ここには重要な点がいくつかある。

 

イーライ・パリサーの著書「フィルターバブル」によれば、情報を各自の嗜好にカスタマイズする「パーソナライズドフィルター」をとおして人は自分が興味を持っている情報ばかりを受け取るようになり、それによってやがて自分の欲しい情報、都合のよい情報だけに囲まれた「パーソナルバブル」の中に閉じこもるだろうと指摘した。

 

これはもう始まっているのではないだろうか。私のタイムラインには野党批判、与党支持の情報が多く流れ、逆に政府批判はあまりない。私は積極的に政府批判のツイートを探すわけでもないし、むしろフォローしている人の中に野党支持のツイートを流すのがいればフォローを外すなり、リツイートをタイムラインに出さないように設定するということをやったりする。これをやっている人間はたくさんいるだろうし、逆に与党支持のツイートを見ないようにしたり、あるいは政治自体にかかわりたくないから政治的要素を含むものを全部シャットアウトしている人もいるだろう。こんな感じでパーソナルバブルに閉じこもっている人はかなりいるだろうと思う。ソーシャルメディアは「嫌なら見るな」が簡単にできるという事実は忘れてはならない。

 

ソーシャルメディアは日常の流れの合間に「チェック」するのが普通で、一か所に腰を落ち着けて長い記事をじっくり読むという雰囲気にはなりにくい。また、ソーシャルメディア経由で受け取るニュースは、空き時間にパーソナルな情報と一緒に流れてくる「タイムライン」で読んでいることが多くなり、どうしても友達とシェアできる情報や役に立つ情報、自分が期待する情報が目につきやすい。

 

これも当然といえば当然だろう。自分のいいねを漁ってみた。

ライフハックだったり、おいしいご飯の話は自分にとってプラスになるだろうし、他人のタイムラインに流すことでそれを見て役に立ったという事例もあるだろう。 

 

 ソーシャルメディアの基準がニュースメディアの基準と重なって、私的なおしゃべりと公共ニュースの境界線があいまいになっていけば、「ニュース」の信頼の基準は、真実か真実ではないか、正確かそうでないか、ではなく、発信源が友達側からどうか、になっていく可能性もある。ニュースの情報源として、報道機関を信用するか、友達を信用するか。ニュース価値のヒエラルキーは変化するのか。

 

最後の点について、私はニュースの情報源の信用はもうごっちゃになりつつあると思う。というのは、報道各社がtwitterを通して、投稿者に対しアプローチをかけているからである。こんな感じで。

友達が偶然現場に居合わせたから本当なのだろうという事態がこの先起きてくるかもしれない(もうそうなのかもしれないが)。

話は横道にそれるが、投稿者によるメディアへの提供についても一部では問題になっているらしい。なぜ伝聞であるかというと、この件は自分が能動的に調べたわけでなく、twitterで流れてきたものを受け取って、自分は正しいかどうか確認せずRTやいいねをしたものであるからである。

 

これらはメディアが上にあり、一般市民を下に見ているといっても差し支えないかもしれない。例えばこれが情報提供しているのが市民ではなく週刊誌だったらどうだろう。無償でくれという要求はしないだろう。現に週刊誌は昨年スクープ動画をテレビ局に何百万で売ったという話が聞かれるし、週刊誌はこれを一つの柱にしようなんて話もあるらしい。誰が情報源かで金を出す出さないの判断をしているのはいかがなものだろうか。

 

「ファクトチェック」にはさらにより本質的な問題がある。たとえ機械学習をさせて理想的な「ファクト・チェック」の仕組みをつくったとしても、情報の真偽については、最終的には人間が文脈とともに判断を下さなければならない。その際、その真偽を誰が判断するかという問題は、永遠に残るのである。米国では、こうした第三者機関は、とりわけ「不偏不党かつ公平な行動」などを定めた「綱領」の遵守にサインをすることが求められているが、このような第三者によって定められた「不偏不党」や「公平性」の定義こそ、まさに現在「メディア不信」の原因となっているわけだ。

 

この問題は解決しようがない。人間というものが介入してしまう以上、先入観や自分の思想がごくわずかでも出てしまうことは往々にしてあるだろう。その先入観こそが厄介なものなのではないか。

こんな感じで、メディアがフェイクニュースかファクトチェックする記事は、体制側にプラスである方が多いのは肌で感じる。沖縄で幼稚園にヘリコプターの部品が落っこちたという記事が話題になっていたがあれは本当に落下したものだったのだろうか?これが事実なら体制側にマイナスになる。これについて検証した報道機関がいくつあったのだろうか?

別角度でみると世の中にある記事をすべて「ファクトチェック」するのは不可能であるから、ある程度の選別が必要だろう。その選別は果たして機械にできるのか。

 

2016年11月14日付「ギズモード」の報道によると、フェイスブック社は「フェイク・ニュース」の撃墜のための仕組みを検討したが、その際、大部分が政治的に右派的な内容がはじき出されていくことを知り、「政治的公平性」という観点から導入はお蔵入りとなったという。(中略)さらに、「ファクト・チェック」と称してニュースをチェックすることは、「言論・表現の自由」に抵触するという批判もある。

 

 つまりは、フェイクニュース(とされるもの)はほとんど政治的に右派な内容、ともいえる。また、表現の自由言論の自由を重んじるメディアが「ファクトチェック」と称してニュースについて疑ってかかるのは自分で自分の首を絞めている、とも言い換えられるかもしれない。

 

終章にはこんなことが書いてある。

社会心理学者の橋元良明らの調査によると、ネット上でのプライバシー流出に関する日本人の不安も、調査対象10か国(日、米、中、英、韓、独、仏、フィンランドシンガポール、チリ)の中で極めて高いという。また日本人は、被害経験がない場合でも、他人のネットの書き込みに不安を感じる割合が高く、特に女性は一番高かったという。

本来ならば、まずはネットが市民の声の受け皿となるフラットな空間として市民同士をつなげ、参加を促す、最適な民主主義の実践現場となるはずである。ネットへの不安を取り除き、手軽で安心して参加できる市民の広場のイメージを強化していく必要があるだろう。

 

それはそうだろうが、SNSの発言一つで個人情報を特定される恐れがある日本で、ネットがフラットな空間であることができるであろうか。例えば、2012年から続いている2chでの炎上は2018年になっても標的は変わったがいまだ続いているし、いわゆる鬼女とよばれる人たちのSNSの断片をつなぎ合わせて導く個人情報特定能力には目を見張るものがある。twitterではよく発言一つで炎上しているのはしょっちゅうだし、ひどければ個人情報特定して晒しあげることもある。ネットの書き込み一つで個人情報までも特定されてしまう恐れがあるのだから、それは慎重にならざるを得ないだろうし、書き込んでいる人たちも不安感はあるだろう。

 

いわゆる「炎上」で話題をさらうことを狙っているのかどうか、真意はわからないが、企業にネット上の動画広告を取り下げさせる事件があとをたたない(「ハフポスト」2017年5月25日)。ルミネ、サントリー宮城県など、大手の一流クライアントの広告が、人権侵害まがいの侮辱的な表現を含む動画を流して問題になり、その都度クライアントが慌てて動画を取り下げる。この繰り返しだ。毎回、どこかで、ネットなら少しくらいやんちゃをしてもよいよいう意識があることが垣間見れる。

 

本当にそうなのだろうか。少なくとも私はそう思わない。私は広告業界はそんな意識は持っていないだろう。むしろテレビではできないことをやろうとしているのではないだろうか。それは「やんちゃ」なのかもしれないが、私は「挑戦」だと思う。広告が問題になるのはインターネットで公開されることで誰でも簡単に見れて、そしてSNSで完走を簡単に言える環境だからなのではないだろうか。おかしいなと思ったことを率直に言って、それが友達、ないしは同じことを考えている人のタイムラインに流れ、それが連鎖的につながっているのだろう。あとはクライアントがクレームに及び腰であるという事情もあるのかもしれない。大部分の人は問題なしと思っていても一部が大騒ぎしているだけで、さっさと取り下げているクライアントが多いのかもしれない。それは炎上で不買運動などにつながり経営に悪影響を及ぼすのが嫌だからなのだろう。

 

かなり長々といろいろ書いたが、それはこの本が有益な情報の塊であることの裏返しであると私は思っている。あとは、比較的筆者の政治思想の色が出てないのがよかった。筆者の政治色が濃く出ている本は読みづらいし、右や左に振れているとそもそも正しいのかという疑問すら出てくる。そういう点で色が出てないほうがスッと入るので個人的にはよかった。

ここら辺で〆させていただきます。書くのに5時間ぐらいかかった…