ものもたぱ王国日誌

ただの備忘録です

自分の言葉ってなんだろう

なんだろうね、本当。

ゼミの面接で教授に「あなたの書いてることは本当に自分の思っていることなの?」と言われたことがきっかけです。

私は頭の回転があんまりよくないので、面接終わって一晩経ってから「なんかこの面接おかしくない?」と思い始めて日に日にイライラしてきたので書こうかと思います。

 

ストレスがたまる点①ゼミ生の失礼な質問

受けたゼミが学部の専攻学科と別のメディア系だったのである意味では仕方がなかったのかもしないし、私が高校時代新聞部だったことをESで書いていたのでリアクションを試しているのかもしれないが、それでも「あなたはなぜメディア系の学科に入らなかったのですか?」は気に食わない。

大学受験の時あなたはそこまでしっかり学部学科を考えて受けましたか?と問い返したい。少なくとも私は全然考えて受けてなかった。私が入りたかったのはMARCHクラスの経済、ないしは商学部だったし、滑り止めでこの学部を受けたのはある程度のレベルでかつ卒論がないから(これだけで学部の推察立っちゃうけど)。滑り止めまできちんと考えて受験している人は凄いと思う。

思うのは、メディア一つとっても、美術系の専門誌だってあるし、新聞にしても、経済系やスポーツ系、医療系や政治系など様々な人が集まってできてるのであるのから、専攻の違いをとやかく言われる必要はない。いいじゃん専攻別でも。Masterすらとってないクソ教授(researchmapに何も書いてない)も学部ゼミは別学科のゼミに越境してたようだしそこ突いてて教授が無反応なのは間違ってる。

 

 

ストレスがたまる点②まずゼミ面接はお説教の場ではない

これ。あんたの説教を聞きに来たわけじゃない。私が売り込みに来たんだ。お説教するくらいなら書類で落としてくれ。時間の無駄だ。正しさは失礼の免罪符じゃない。

 

 

ストレスがたまる点③自分の言葉で語るという曖昧な言葉で批判される

そもそも自分の言葉とは何でしょうか。Googleで検索をかけるといろいろ出てきます。この話題で本が一冊書ける程度には内容があるようです。色々な人がいろいろなアプローチでこれについて書いている。ということは定義が定まっていない。そんな定義が定まっていない曖昧な言葉で言われても頭の中に?マークが浮かぶだけなんですよ。

私が思う自分の言葉って、経験を重ねてその人の感じが文章であれ発言であれそこから滲み出るものだと思うんですよ。自然と出るものに対してこうしろああしろというのは無理だと思います。こういうアプローチをかけるといいんじゃないという意見もその人が思う自分の言葉だと思うんですね。

今の社会に自分の言葉はあんまり必要じゃないと思うんですよ。むしろ他人の言葉に乗っけて発展させた方がいい。

この現象が至るとこで発生しているんですよ。自分の思ってることはもう10人が思っていて3人はどこかで発信していると覚悟した方がいい。その中でどう自分の色を出せるかって考えると同じ意見の人の文を読み、考えさらに発展させるような形が一番色が出るんじゃないかと思うんですよ。私はそう思っているのでそんな形でESを出した。そしたら「自分の言葉で書いてない」。ここまでくると考え方の違いですね。埋まりようがない。事実を積み重ねて、そこから導き出される結果をもとに思ったり、考えたりすることで自分の言葉は生まれてくると思うんですよ。私はそう思いますよ。

 

ここからは教授個人に対する攻撃に近いもの。

まずMasterすらとってない人間がゼミ運営するな。いくら社会人経験が豊富で著書を何冊書いていたとしてもその下にある理論的土台がない人間にゼミ運営の資格があるのか。せめてMasterはとっておけ。Doctorはいいから。あとは査読付き論文も書いとけ。これくらいは最低限必要。それからだよ。テレビやラジオで解説委員として出てるったってそれはそれ。教育者とは別ベクトルだと思うんですね。

 

こんなゼミを受けようと思ったのが間違いだったと思った次第です。ノンゼミで頑張ります。まああのゼミは教授ともども潰れろと思いますがね。少なくとも私は顔も見たくない。