ものもたぱ王国日誌

ただの備忘録です

TLに流れてきたうまいものまとめ

ネットの海に忘れられていそうだったのでざっと自分のいいねの中に入ってたものを公開しておきます。いつか食べに行きたい。 

 

TLに流れてきたうまいものまとめ

ネットの海に忘れられていそうだったのでざっと自分のいいねの中に入ってたものを公開しておきます。いつか食べに行きたい。 

 

教員免許取得への道②

先日、学務に問い合わせたところ、「科目等履修生は学則に引っかからない」とお墨付きをいただいたので科目等履修生の検討を開始することに。

その前に自分のとこの教職科目の時間割を確認するとまあ被ること被ること!

とりあえず教職担当教員にご機嫌伺いのメールを書くことに。何かいいアイデアをくれるかもしれない(他学部履修とか)。というわけで明日会談することが決定しました。どうなるかはわからん

教員免許取得への道①(11/22追記)

さて、教員免許を取りたいなと思っているわけですが、大きな壁が2点。

1 教員免許を取ろうと思ったのが遅すぎた

取ろうと思ったのは3年の秋(今)です。あまりにも遅い。院に行くとしても3年はいる必要がある。

2 教育職員免許法の大改正

これ。これのせいで大学卒業すると新法に変わるので追加でとる単位が出てくる。

 

のダブルパンチですね。特に2の教職免許法改正が痛い。単位流用がどこまでできるのかが予測つかない(特に大学独自設定科目)。

→総合的な学習の時間と特指の単位2つが増えただけで他は流用可能(11/22追記)

 

(ここから11/22追記)

さあここからの選択肢は3つ

①来年は教職単位をとれるだけ取り、大学院進学して専修をかっさらう。(新法適用)

②今の大学に残り1年留年して単位を取りきる。(旧法適用)

③とりあえず教職単位をとれるだけ取ってから来年卒業して通信に入って単位を取る。(新法適用)

 

①のリスクとしては大学院試験に落ちたらどうするのか。

②のリスクとしては介護体験、教育実習が同一年度に被る。

③のリスクとしてはさらに2年かかって結局ストレート院卒と変わらない。

よって③は落ちて①と②に絞られる。

①の場合は教員免許取得プログラムを活用、またはM次に学部聴講と科目等履修生の二刀流で単位を稼いで免許発行。→その場合一括申請は不可。個人申請。

②の場合には科目等履修生の活用を検討(長期休暇中にやることで負担軽減)。

 →こちらも個人申請になる。

(ここまで)

 

備忘録(2017新法)

中学1種免許

教科及び教科の指導法 :28

教育の基礎的理解:10

道徳・総合的な学習の時間等の指導法及び生徒指導・教育相談:10

教育実践に関する科目:5+2(実習・教職実践演習)

大学独自設定科目:4

 

高校1種免許

教科及び教科の指導法 :24

教育の基礎的理解:10

道徳・総合的な学習の時間等の指導法及び生徒指導・教育相談:8

教育実践に関する科目:3+2(実習・教職実践演習)

大学独自設定科目:12

【書評】メディア不信――何が問われているのか

 気になったので購入。

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

メディア不信――何が問われているのか (岩波新書)

 

 

読んだ率直な感想としては、かなり示唆に富んだ内容であったと思う。ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本の現状を分析し、その後にソーシャルメディアについて書いてある。私が重要だと思ったのはソーシャルメディアについて書かれている5章だ。ここには重要な点がいくつかある。

 

イーライ・パリサーの著書「フィルターバブル」によれば、情報を各自の嗜好にカスタマイズする「パーソナライズドフィルター」をとおして人は自分が興味を持っている情報ばかりを受け取るようになり、それによってやがて自分の欲しい情報、都合のよい情報だけに囲まれた「パーソナルバブル」の中に閉じこもるだろうと指摘した。

 

これはもう始まっているのではないだろうか。私のタイムラインには野党批判、与党支持の情報が多く流れ、逆に政府批判はあまりない。私は積極的に政府批判のツイートを探すわけでもないし、むしろフォローしている人の中に野党支持のツイートを流すのがいればフォローを外すなり、リツイートをタイムラインに出さないように設定するということをやったりする。これをやっている人間はたくさんいるだろうし、逆に与党支持のツイートを見ないようにしたり、あるいは政治自体にかかわりたくないから政治的要素を含むものを全部シャットアウトしている人もいるだろう。こんな感じでパーソナルバブルに閉じこもっている人はかなりいるだろうと思う。ソーシャルメディアは「嫌なら見るな」が簡単にできるという事実は忘れてはならない。

 

ソーシャルメディアは日常の流れの合間に「チェック」するのが普通で、一か所に腰を落ち着けて長い記事をじっくり読むという雰囲気にはなりにくい。また、ソーシャルメディア経由で受け取るニュースは、空き時間にパーソナルな情報と一緒に流れてくる「タイムライン」で読んでいることが多くなり、どうしても友達とシェアできる情報や役に立つ情報、自分が期待する情報が目につきやすい。

 

これも当然といえば当然だろう。自分のいいねを漁ってみた。

ライフハックだったり、おいしいご飯の話は自分にとってプラスになるだろうし、他人のタイムラインに流すことでそれを見て役に立ったという事例もあるだろう。 

 

 ソーシャルメディアの基準がニュースメディアの基準と重なって、私的なおしゃべりと公共ニュースの境界線があいまいになっていけば、「ニュース」の信頼の基準は、真実か真実ではないか、正確かそうでないか、ではなく、発信源が友達側からどうか、になっていく可能性もある。ニュースの情報源として、報道機関を信用するか、友達を信用するか。ニュース価値のヒエラルキーは変化するのか。

 

最後の点について、私はニュースの情報源の信用はもうごっちゃになりつつあると思う。というのは、報道各社がtwitterを通して、投稿者に対しアプローチをかけているからである。こんな感じで。

友達が偶然現場に居合わせたから本当なのだろうという事態がこの先起きてくるかもしれない(もうそうなのかもしれないが)。

話は横道にそれるが、投稿者によるメディアへの提供についても一部では問題になっているらしい。なぜ伝聞であるかというと、この件は自分が能動的に調べたわけでなく、twitterで流れてきたものを受け取って、自分は正しいかどうか確認せずRTやいいねをしたものであるからである。

 

これらはメディアが上にあり、一般市民を下に見ているといっても差し支えないかもしれない。例えばこれが情報提供しているのが市民ではなく週刊誌だったらどうだろう。無償でくれという要求はしないだろう。現に週刊誌は昨年スクープ動画をテレビ局に何百万で売ったという話が聞かれるし、週刊誌はこれを一つの柱にしようなんて話もあるらしい。誰が情報源かで金を出す出さないの判断をしているのはいかがなものだろうか。

 

「ファクトチェック」にはさらにより本質的な問題がある。たとえ機械学習をさせて理想的な「ファクト・チェック」の仕組みをつくったとしても、情報の真偽については、最終的には人間が文脈とともに判断を下さなければならない。その際、その真偽を誰が判断するかという問題は、永遠に残るのである。米国では、こうした第三者機関は、とりわけ「不偏不党かつ公平な行動」などを定めた「綱領」の遵守にサインをすることが求められているが、このような第三者によって定められた「不偏不党」や「公平性」の定義こそ、まさに現在「メディア不信」の原因となっているわけだ。

 

この問題は解決しようがない。人間というものが介入してしまう以上、先入観や自分の思想がごくわずかでも出てしまうことは往々にしてあるだろう。その先入観こそが厄介なものなのではないか。

こんな感じで、メディアがフェイクニュースかファクトチェックする記事は、体制側にプラスである方が多いのは肌で感じる。沖縄で幼稚園にヘリコプターの部品が落っこちたという記事が話題になっていたがあれは本当に落下したものだったのだろうか?これが事実なら体制側にマイナスになる。これについて検証した報道機関がいくつあったのだろうか?

別角度でみると世の中にある記事をすべて「ファクトチェック」するのは不可能であるから、ある程度の選別が必要だろう。その選別は果たして機械にできるのか。

 

2016年11月14日付「ギズモード」の報道によると、フェイスブック社は「フェイク・ニュース」の撃墜のための仕組みを検討したが、その際、大部分が政治的に右派的な内容がはじき出されていくことを知り、「政治的公平性」という観点から導入はお蔵入りとなったという。(中略)さらに、「ファクト・チェック」と称してニュースをチェックすることは、「言論・表現の自由」に抵触するという批判もある。

 

 つまりは、フェイクニュース(とされるもの)はほとんど政治的に右派な内容、ともいえる。また、表現の自由言論の自由を重んじるメディアが「ファクトチェック」と称してニュースについて疑ってかかるのは自分で自分の首を絞めている、とも言い換えられるかもしれない。

 

終章にはこんなことが書いてある。

社会心理学者の橋元良明らの調査によると、ネット上でのプライバシー流出に関する日本人の不安も、調査対象10か国(日、米、中、英、韓、独、仏、フィンランドシンガポール、チリ)の中で極めて高いという。また日本人は、被害経験がない場合でも、他人のネットの書き込みに不安を感じる割合が高く、特に女性は一番高かったという。

本来ならば、まずはネットが市民の声の受け皿となるフラットな空間として市民同士をつなげ、参加を促す、最適な民主主義の実践現場となるはずである。ネットへの不安を取り除き、手軽で安心して参加できる市民の広場のイメージを強化していく必要があるだろう。

 

それはそうだろうが、SNSの発言一つで個人情報を特定される恐れがある日本で、ネットがフラットな空間であることができるであろうか。例えば、2012年から続いている2chでの炎上は2018年になっても標的は変わったがいまだ続いているし、いわゆる鬼女とよばれる人たちのSNSの断片をつなぎ合わせて導く個人情報特定能力には目を見張るものがある。twitterではよく発言一つで炎上しているのはしょっちゅうだし、ひどければ個人情報特定して晒しあげることもある。ネットの書き込み一つで個人情報までも特定されてしまう恐れがあるのだから、それは慎重にならざるを得ないだろうし、書き込んでいる人たちも不安感はあるだろう。

 

いわゆる「炎上」で話題をさらうことを狙っているのかどうか、真意はわからないが、企業にネット上の動画広告を取り下げさせる事件があとをたたない(「ハフポスト」2017年5月25日)。ルミネ、サントリー宮城県など、大手の一流クライアントの広告が、人権侵害まがいの侮辱的な表現を含む動画を流して問題になり、その都度クライアントが慌てて動画を取り下げる。この繰り返しだ。毎回、どこかで、ネットなら少しくらいやんちゃをしてもよいよいう意識があることが垣間見れる。

 

本当にそうなのだろうか。少なくとも私はそう思わない。私は広告業界はそんな意識は持っていないだろう。むしろテレビではできないことをやろうとしているのではないだろうか。それは「やんちゃ」なのかもしれないが、私は「挑戦」だと思う。広告が問題になるのはインターネットで公開されることで誰でも簡単に見れて、そしてSNSで完走を簡単に言える環境だからなのではないだろうか。おかしいなと思ったことを率直に言って、それが友達、ないしは同じことを考えている人のタイムラインに流れ、それが連鎖的につながっているのだろう。あとはクライアントがクレームに及び腰であるという事情もあるのかもしれない。大部分の人は問題なしと思っていても一部が大騒ぎしているだけで、さっさと取り下げているクライアントが多いのかもしれない。それは炎上で不買運動などにつながり経営に悪影響を及ぼすのが嫌だからなのだろう。

 

かなり長々といろいろ書いたが、それはこの本が有益な情報の塊であることの裏返しであると私は思っている。あとは、比較的筆者の政治思想の色が出てないのがよかった。筆者の政治色が濃く出ている本は読みづらいし、右や左に振れているとそもそも正しいのかという疑問すら出てくる。そういう点で色が出てないほうがスッと入るので個人的にはよかった。

ここら辺で〆させていただきます。書くのに5時間ぐらいかかった…

【書評】「クルマを捨ててこそ地方は甦る」

知人がゼミの課題図書として読んでいて気になったので購入。読み終えていろいろと思ったことがあったので書いてみます。

 

クルマを捨ててこそ地方は甦る (PHP新書)

クルマを捨ててこそ地方は甦る (PHP新書)

 

 

①郊外化の原因は郊外志向なのだろうか?

 

筆者は郊外の宅地開発と人々の車依存と郊外志向、それによりまちの中心部の商店街が衰退し、シャッター街化としたと分析している。果たして、本当にそうなのだろうか。私が思うに、街の中心部では家を買うことのできない人たちが、郊外に土地を買って、家を作り、駅や会社へ向かうにあたる足として車を使う。その人たちにとって都合のよいようにスーパーなどの店が郊外に進出し、郊外の人間は近い郊外の店で済ますようになる。これは当然の理ではないだろうか。みんながみんな街の中心部の高い土地を買えるならそもそも郊外化は起きないだろうし、郊外型ショッピングセンターも各地にたくさんできるわけがない。

 

②郊外化=雇用の喪失なのだろうか?

 

車社会の地方都市では「民間が投資しなくなり、撤退していく」と書いてある。ちょっと待ってほしい。中心部がシャッター街化していたとしても、郊外型大型ショッピングセンターがあればその分の雇用が創出されているという事実に目を背けている。中心街では雇用はないかもしれないが、郊外に仕事があればそっちで働いて生きていけるのではないのだろうか。雇用人数の話があったが、商店街で抱えられる雇用よりショッピングセンターで雇用される人間の方が少ないということが現実あり得るのだろうか?私はあり得ないと思う。商店街の店は家族経営がほとんどだろう。そこでパートやアルバイトを数人も抱えるということがあまり考えられない(喫茶店などならあり得るが)。

 

③富山LRT事業は特殊だ

 

4章で富山LRT事業についていろいろと書かれている。個人的に思うのは富山市が全国で17しかない路面電車を運行している地域という特殊性だ。市民にとっては路面電車というのが当たり前にある。また富山港線はJR西が運行していたのを移管したようなものであり、市民に抵抗はあまりないだろう。今、宇都宮でLRT事業が進行しているが、LRT反対派がかなりいるようで、2016年の宇都宮市長選では賛成派の現市長と反対派の候補との得票差は約6200票と僅差であった。市民から必要とされているのか判断がつきにくい。

富山のLRT事業を別角度から見てみよう。富山ライトレール株式会社は毎年9千万~1億前後の営業赤字を出している。これの赤字分を補てんするために補助金としての税金が投入されている。果たしてこれをペイできるほど沿線地域からの税収があるのだろうか?疑問である。

 

④車を捨てることができるのは公共交通が適度に発達していなければできない

 

一番見逃されやすく、かつ一番重要な点だと私は思う。東京や京都といった大都市なら車がなくても普通に生きていけるが、これが2時間に1本しか汽車がない地域ならどうだろうか?こんな地域で車を捨てるのは無理だろう。むしろ車がないと生きていけない。そんな地域で「車を使うのは危ないですよ」といっても説得力がない。年寄りだろうが若者だろうがそこにいる人たちはそんなリスクを承知の上で車を使っているのだ。

 

まとめ

 

私は筆者の考えが使えるのは都会に近い人口がある程度いる都市だと考えている。衰退してしまった都市では使いようがないのだ。これは衰退してしまった都市を蘇らせる特効薬ではないのだ。

自分の言葉ってなんだろう

なんだろうね、本当。

ゼミの面接で教授に「あなたの書いてることは本当に自分の思っていることなの?」と言われたことがきっかけです。

私は頭の回転があんまりよくないので、面接終わって一晩経ってから「なんかこの面接おかしくない?」と思い始めて日に日にイライラしてきたので書こうかと思います。

 

ストレスがたまる点①ゼミ生の失礼な質問

受けたゼミが学部の専攻学科と別のメディア系だったのである意味では仕方がなかったのかもしないし、私が高校時代新聞部だったことをESで書いていたのでリアクションを試しているのかもしれないが、それでも「あなたはなぜメディア系の学科に入らなかったのですか?」は気に食わない。

大学受験の時あなたはそこまでしっかり学部学科を考えて受けましたか?と問い返したい。少なくとも私は全然考えて受けてなかった。私が入りたかったのはMARCHクラスの経済、ないしは商学部だったし、滑り止めでこの学部を受けたのはある程度のレベルでかつ卒論がないから(これだけで学部の推察立っちゃうけど)。滑り止めまできちんと考えて受験している人は凄いと思う。

思うのは、メディア一つとっても、美術系の専門誌だってあるし、新聞にしても、経済系やスポーツ系、医療系や政治系など様々な人が集まってできてるのであるのから、専攻の違いをとやかく言われる必要はない。いいじゃん専攻別でも。Masterすらとってないクソ教授(researchmapに何も書いてない)も学部ゼミは別学科のゼミに越境してたようだしそこ突いてて教授が無反応なのは間違ってる。

 

 

ストレスがたまる点②まずゼミ面接はお説教の場ではない

これ。あんたの説教を聞きに来たわけじゃない。私が売り込みに来たんだ。お説教するくらいなら書類で落としてくれ。時間の無駄だ。正しさは失礼の免罪符じゃない。

 

 

ストレスがたまる点③自分の言葉で語るという曖昧な言葉で批判される

そもそも自分の言葉とは何でしょうか。Googleで検索をかけるといろいろ出てきます。この話題で本が一冊書ける程度には内容があるようです。色々な人がいろいろなアプローチでこれについて書いている。ということは定義が定まっていない。そんな定義が定まっていない曖昧な言葉で言われても頭の中に?マークが浮かぶだけなんですよ。

私が思う自分の言葉って、経験を重ねてその人の感じが文章であれ発言であれそこから滲み出るものだと思うんですよ。自然と出るものに対してこうしろああしろというのは無理だと思います。こういうアプローチをかけるといいんじゃないという意見もその人が思う自分の言葉だと思うんですね。

今の社会に自分の言葉はあんまり必要じゃないと思うんですよ。むしろ他人の言葉に乗っけて発展させた方がいい。

この現象が至るとこで発生しているんですよ。自分の思ってることはもう10人が思っていて3人はどこかで発信していると覚悟した方がいい。その中でどう自分の色を出せるかって考えると同じ意見の人の文を読み、考えさらに発展させるような形が一番色が出るんじゃないかと思うんですよ。私はそう思っているのでそんな形でESを出した。そしたら「自分の言葉で書いてない」。ここまでくると考え方の違いですね。埋まりようがない。事実を積み重ねて、そこから導き出される結果をもとに思ったり、考えたりすることで自分の言葉は生まれてくると思うんですよ。私はそう思いますよ。

 

ここからは教授個人に対する攻撃に近いもの。

まずMasterすらとってない人間がゼミ運営するな。いくら社会人経験が豊富で著書を何冊書いていたとしてもその下にある理論的土台がない人間にゼミ運営の資格があるのか。せめてMasterはとっておけ。Doctorはいいから。あとは査読付き論文も書いとけ。これくらいは最低限必要。それからだよ。テレビやラジオで解説委員として出てるったってそれはそれ。教育者とは別ベクトルだと思うんですね。

 

こんなゼミを受けようと思ったのが間違いだったと思った次第です。ノンゼミで頑張ります。まああのゼミは教授ともども潰れろと思いますがね。少なくとも私は顔も見たくない。